山が椅子を持っている 人はまず、山の近くの空に椅子が浮いている、あるいは、椅子が戸口に浮いているのを見て、不思議に思うだろう。そこで、「ああ、椅子が浮いてる!」とありのままを楽しめばよいのだが、なかなかそうはいかない。 まず人は、この山はなんだろう?と考え始めるだろう。そして、ちょっとばかり絵に詳しい人なら、これがセザンヌという画家が描いたサント=ヴィトワール山に似ていることに気づく。さらに小川さんの作品を知っている人なら、もう一枚の絵が「without you」シリーズで、ほんとうは戸口に椅子を持って立っている何者かが消されていることに気づく。そして、一方の絵がサント=ヴィクトワール山なら、こちらで消えている人物はセザンヌだろう、と推測するはずである。しかもよく見れば、戸口に浮いている椅子だけでなく、どちらの絵にも本とステッキがあり、それらはまったく同じ角度から描かれているではないか…わかったぞ。ということは、戸口からいなくなっているセザンヌは、実はいなくなっているのではなくて、もう一枚の絵の方で、サント=ヴィクトワール山となって、椅子を持っているんだ…。 なかなかに罪深い絵である。実際のサント=ヴィクトワール山は、お手元に写真があれば見比べていただくと分かるように、裾野にこの絵のような平原は広がっておらず、ごつごつした岩肌が続いている。にもかかわらず、酷似したシルエットを持つ山、そして椅子と本とステッキの存在は、ここに描かれているのがサント=ヴィクトワール山の風景だ、とわたしたちに認識するよう仕向けるのである 。しかしそうしておきながらこの絵は、見る者を一気に突き放し、はるか後方に置き去りにしてしまう。どうしたって、山の上空にこのような大きさで椅子が浮いていることの説明がつかないからである(説明なんてする必要はないのに!)。そこで見る者は、おそらくは苦し紛れから、「主体」を探し、一方にない主体の存在を山で埋める、つまりこの山はセザンヌである、などと考えるのである。ほんとうは、わたしたちの想像がとうてい追いつかない大転換を目の前にもたらした画家の発想の大胆さと技術の確かさをそのまま讃えればよいだけであるにもかかわらず、である。 わたしはこの二枚の絵が、あるがままを受け入れられないで右往左往する、そんなわたしたちのありようを浮き彫りにしながら、呵呵と笑っているように思える。なのでほんとうは、罪深いというより痛快な絵、と言うべきだろう。そう気づいたわたしたちも、呵呵と笑うしかない。笑いながらも、「とすれば、あの手押し台車はいったい…」などと、まだしつこく考えているにちがいないのだが。 (秋庭史典:名古屋大学大学院情報学研究科教授) 言うまでもなく、「モアレの風景」を描くことのできる小川さんにとってはたやすいことである。 --------------------------------------------------------------------- Gertrud Osthaus "Paul Cezanne, 1906" https://fr.m.wikipedia.org/wiki/Fichier:1906_Paul_Cezanne_Foto_von_Gertrud_Osthaus.jpg |